【感想】ミッドサマー毎日観たい
こんにちは。グランド肉片だ。
今回は映画・ミッドサマーの感想をとりあえず書く。何せこの後成長した教え子たち(なんの比喩でもない、マジ)と再会する予定があり、つまりこの感情をしたためるタイミングは今しかない。スピード勝負である。
メヴレヴィー教団をご存知だろうか。
彼らは長いスカートを履いてくるくる回る宗教行為で知られているイスラム教神秘主義の一派である。
高校生の頃歴史だか地理だかで彼らを知り、面白いと思って自分でも長いスカートでくるくる回ってみたことがある。
当たり前だが目を回してぶっ倒れた。汗を浮かべ肩で息をし、おぼつかない頭で起き上がる。その時、しかし微かな快感を覚えたことを今でも思い出せる。
その時、高校生わたしは「宗教行為も、スポーツも、あるいは自分の絵を描く行為も、一種のトランスを目指しているのか」と思ったのである。
ミッドサマーで踊る少女たちのスカートが美しくひるがえる様を見ながらわたしはその時のことを思い出していた。
「ミッドサマーは癒し映画」という触れ込みを、映画ジャンキーかはたまたサイコパス気取りか、あるいはそのものの感想かよと受け取っていたが、大いに反省している。本当に癒し映画だった。
ミッドサマーは私をトランスの世界に連れていってくれた。
ホルガに来る前の主人公ダニーは痛々しいほど孤独で、家族にも彼氏にも深層で突き放されている。抱えたいたみをコントロール出来ず、抗不安薬に頼ったり、それでもはみ出した分を彼氏にぶつけたり。とっくに冷えきったものを断ち切れずに絡まりの中で身体をささえていた。
ホルガは、小さく閉鎖的であるが故に自他の境界の薄い世界である。家族が共に食べ、笑い、そればかりかセックス(繁殖)も家族が見守り、感じ合い、また慟哭したり、死の苦しみをも共有する。そうして生のサイクルを保全する。
無論こんな状態は現実にマジで味わいたいかといえばグロテスクで泣いちゃうと思うし、それを除いても現実的とは言えない。
しかし映画の上映時間だけ、ミッドサマーはゆっくり丁寧に「防衛」をとき剥がして私をその世界へ連れて行って、カタルシスを与えてくれた。身体が自然と同調し、風と草木のざわめき、脈拍と呼吸がひとつになる。全てがあるようになる。2時間18分のセラピーの映画だった。
ミッドサマーをこれから見たいけど不安という人には、ぜひ上映時間の間だけ、トランスの感覚に身を任せることをオススメしたい。正気の人間にだけ恐怖は襲い来る、そんな映画である。
服部瞳子がわたしの人生にいた。
こんにちは。グランド肉片だ。
服部瞳子というアイドルのプロデューサーを始めて、早いもので今年でもう3年が経とうとしている。
おっとりとした優しげな顔立ちとは裏腹に、彼女の過去はすこし訳アリだ。
プロデューサーと出会う前、彼女は別の事務所でアイドル活動をして、そこで一度挫折し芸能界を引退している。カフェ店員をしていた彼女のよく通る声にプロデューサーが目をつけ、熱心に口説き落として……25歳の今が最後のチャンスだと思いながら再びアイドルの道を歩いている、それが現在の服部瞳子である。
無味乾燥に聞こえるかもしれないが、私はそのエピソードをふつうに「エモい」と思い、それがきっかけで彼女をデレマスにおける私の一番にすることを決めた。正直、瞳子ちゃんは自分の夢を追い込みすぎていると感じたので、彼女と接していく中で、彼女がいつか「いつだって自分の夢を追いかけていいんだ」と思ってほしいな、とぼんやり考えていた。2017年の春ごろの話である。私は23歳だった。
ところで、デレマスでは人は死なないし、まして殺し合うこともないが、少し残酷な側面がある。
キャラクターの人気によってSSRカードの枚数が露骨に異なるし、声優も限られたキャラクターのみに配役されているのである。
服部瞳子はデレマスという膨大なアイドルの集合体において残念ながら上位陣とは言いがたく、したがって……あけすけな言葉を使うならば冷遇されているように感じることがあった。他のアイドルが何枚もSSRカードを出している中で、SRカードすらない時期もあった。
それでも周囲の服部Pたちはめげず腐らずに熱心な広報活動を続けており、私もそれに励まされて、彼女を応援できたのである。
服部瞳子をシンデレラガールに!その言葉は自分への鼓舞だったかもしれない。
お世辞にも模範的なPとはいえない私だったが、服部瞳子の夢をかなえることが出来たらならば、自分の中にも報われるものがあるように思えたのだ。
時は流れて2019年末、私は25歳になり、服部瞳子と全く関係のない場所で将来のことを見失っていた。
現職には不満はないが、ずっとこれから続けていくことも正直に言ってあまり考えられない。
じゃあ「自分は何がしたいのか?」と思った時、目の前にまっくらな靄が広がってしまった。
空虚だった。私は何が楽しいんだろう。何に喜ぶんだろう。
何もわからない。
悩んで、でも結論は出せずに先送りして、しかし日がたつごとにどんどん現職への拒否感だけが募ってしまった。苦しかった。
年明けて1月7日の夜、とうとう耐えきれなくなり、小学校来の友人を捕まえて深夜のサイゼリヤで泣きながら話をした。彼女は粘り強く私の支離滅裂な話を聞いてくれた。友達に関しては私は一等恵まれているのだった。
友人に洗いざらいぶちまけて出た結論とは、私が「高校時代に諦めた夢をものすごく引きずっていること」「それを追いかけ直すのはまだ遅くないこと」だった。
それから数日後、事件は起こった。
ガチャが更新され、服部瞳子に待望の、初のSSRが実装されたのである。
衣装のすばらしさについてはもう言い尽くされているので今更私がよけいな言葉を挟むまでもないだろう。今までの彼女が、そして新しい彼女が存分に詰め込まれた挑戦的なドレス。
長い長い待ち時間を超えてようやくやってきた服部瞳子はまぶしくてまぶしくて、目から涙がぽろぽろとこぼれ出た。デレステの運営さんに、私が折れてしまいそうなときでも服部瞳子を応援し続けてくれた大勢の服部Pたちに感謝して――ふと、そこで気づいたのだった。
私は今、25歳で夢を再スタートさせようとしている。その状況は、服部瞳子と同じなのだ。
美しい声と、くすぶっている夢を抱えながらカフェ店員をしていたあの時の彼女と。
私は彼女を応援しながら、ずっと自分の心には蓋をし続けていた。目を背けていた。
プロデューサーの手によって服部瞳子は心の蓋を開けて、歌って、踊って、羽ばたいて……その成果として美しい衣装を身にまとって、そして私に向き直ってきた。
プロデューサーさん、あなたは?
そう言われた気がした。
私の人生に、服部瞳子がいた。
私がいままで服部瞳子にかけてきた言葉を、彼女はそのまま返してくれた。
そして今は私も私の夢をかなえて~……という後日談をつけられれば美しい話だったのだが、残念ながら現時点では嘘になってしまうのでそういうわけにもいかない。
でも、出来る限りそうなるように頑張ろうという気持ちが今は満ちている。
今から路線を変えて生きるのはとても困難だし、挫折や後悔をあじわうときだってあるだろう。
それでも、私の人生には友人たちと服部瞳子がいる。それだけで、笑ってしまうくらい勇気が出るのだ。
ありがとう。
カブさんのことしか考えられない
こんにちは。グランド肉片です。
カブさんのことしか考えられない。
カブさんは、ポケットモンスター ソード・シールドに登場するほのおタイプのジムリーダーで、初老で、いつでも背筋が伸びて姿勢がいい。
それ以外のことはまだゲーム内で進んでいないので知らない。
まだ初めのジムの町にすらたどり着いてない。
でもカブさんのことしか考えられない。
カブさんは私の恩人である。
小学生のころ、ポケモンが怖くて、でもポケモンバトルもコンテストもしたい感情をこじらせていた私とポケモンを接続してくれたのは、3年生のときにポケモンの授業に来てくれた当時まだ30代くらいのカブさんだった。
今でこそポケモンだいすきだけど、昔本当にポケモン苦手でさ。お母さんが言うには3歳ぐらいの時にホーホーに追い掛け回されたのがトラウマになってたらしい(覚えてない)んだよ。だから小学生になってみんながポケモンの話してても馴染めなくて、友達もあまりいなくてって感じだったのね
— いなと🎄雪降る遺跡強化週間 (@illumination_17) 2019年12月2日
カブさんに会いたい。
ゲームを進めたいけれど、わたしはガラル地方を旅するトレーナーでありながら社会人なので昼間は会社にいるし、さらに二次創作をするのが大好きなツイッタラーなので自分の冒険を日記にしてしたためている。
一日にあまり出来事が多すぎると書ききらない。なので、一日1時間程度が限界で、本当に物理的にいつカブさんに会えるのか全然わからない。
昨日はジムチャレンジの開会式があって、私はダンデさんに推薦状をもらえたのではるばるエンジンシティまで電車と徒歩で移動して、なぜかキャンプでカレーを2回も作って、開会式に参加した。
そこにカブさんも来ていた。
カブさんは白髪交じりの初老の男性だが、そうと思えないくらい動きが機敏で、姿勢がいい。
いつでも真面目過ぎるくらい背筋を伸ばして脇をしめて、決まった歩幅で走っている。
カブさんのことしか考えられない。開会式はずっと、カブさんのボトムスとハイソックスの間から見える皮膚の部分のことを考えていた。
カブさんの膝は筋肉と骨で四角くもりあがっている。
どれくらい固くて、きっちり四角なんだろう。触って確かめたい。
カブさんのことしか考えられない。
ガラル地方はきっと緯度が高い場所にあるので、冬場はとても寒いだろう。
カブさんはほのおタイプのジムリーダーなので暖に不足はないだろうが、とはいえ暖かい恰好をしてほしいし、困った顔で「今日は冷えるね」って話しかけてほしい。
キャンプをしてみて、私は割とカレーをつくるのがうまいことが分かったので、カブさんにも寒い日に私の作ったカレーを食べてほしい。カレーはなぜかキャンプでしか作れない。
だから私のキャンプにカブさんも来てほしい。
キャンプでヤクデ(カブさんが持っているらしい。詳細は知らない)や私のポケモンと仲良くしているのを眺める生活がしたい。
カブさんのことしか考えられない。
カブさんのことしか考えられない。
カブさんの特集ドキュメンタリー番組を5時間くらいで我慢するので作ってほしい。
小さい頃にホウエン地方で行った場所とか、そういう写真が欲しい。そしたら聖地巡礼をしに行ける。
ガラル地方にはカブさんのジムも、ファンクラブも、普段生活してる家や、お気に入りの本屋とかカフェとか、そういう場所がきっとあると思うと胸が苦しい。私はまだカブさんのポスターすらもってない。欲しい。カブさんと同じ次元にいたい。
わたしは楽しみすぎることがあるとその時がはやく来てほしいのでその瞬間まで気絶していたくなってしまう。
カブさんに会えるその瞬間まで気絶していたい。カブさんのことしか考えられない。
胸の内がざわざわする。カブさんに会いたい。
カブさんのことしか考えられない。
トイストーリー4 世界の声と続く人生
こんにちは。グランド肉片だ。
私は今、トイストーリー4を劇場で鑑賞した帰りの電車でこの文章を書いている。
突然だが、「やりたいこととやるべきことが一致する時、世界の声が聞こえる」という言葉をご存知だろうか?
『STAR DRIVER 輝きのタクト』というアニメに登場する言葉だそうだ。
なぜ伝聞調なのかと言えば、私はそのアニメを見て知ったのではなく、私の恩師に当たる人物からその言葉を教えられ、後にTwitterでそれがスタドラに出てくる言葉なのだと知ったからである。(その恩師がスタドラを見ていたのかも定かではないが)
やりたいこととやるべきことが一致する時、世界の声が聞こえる。
アニメのヒントなしに私なりに解釈したが、なるほど得心の行く言葉だ。
学業が楽しい学生、仕事が楽しい社会人。
やりたいこととやるべきことが一致している彼/彼女は毎日がとても充実しており、また時間の差はあれど優秀な結果を出すイメージも強い。時には、その業界に多大な影響を与える功績すら残すこともある。
まさしくそれは「世界の声が聞こえている」と言えるだろう。
そして、トイストーリーの主人公・ウッディにとってそれは「アンディのおもちゃとして生きること」だった。
アンディにとってウッディは最高のおもちゃで、前作3のラストでおもちゃ達をボニーに譲り渡す際も最後まで躊躇していた。
しかし最終的にアンディはウッディを「自分の部屋の置物」ではなく、「ボニーが心から楽しんで遊ぶおもちゃ」にすることを選んだ。
つい先日のロードショーでトイストーリー3を見て、ラストで号泣した。それだけに4が賛否両論を呼んでいるらしく、どうなるかハラハラしながらの鑑賞だった。
結論から言えば、ボニーがアンディと交わした「大切にして欲しい」という約束は破られることになる。
しかしそれは仕方の無いことだ。
ボニーはまだ幼いし、アンディのウッディに対する想いは年齢を差し引いても汲み取れるものではない。
ボニーはボニーの心に従っておもちゃを愛し、おもちゃと遊ぶ。
だから、ウッディという「保存状態の素晴らしいプレミアムな」そして「アンディがずっと大切にしてきた」おもちゃを放置し、フォーキーという彼自身ですら自分をゴミとして認識してしまうような「おもちゃ」に夢中になるのだ。
ウッディはウッディで、アンディのことをずっと心残りにしたまま、「ボニーのおもちゃ」としての責務をたとえ彼女に相手にされなくてもこなしていく。
アンディの元を去り、ボニーの家で半ば飼い殺しのような生活を送るウッディには「これしかない」のだ。
アンディと別れたウッディにはもう世界の声が聞こえない。それでもウッディにはおもちゃとしての生命が宿っていて、彼がおもちゃとして認識される限り、続いている。その中で彼はどうするのか…… そういったものが問われた映画だったと私は思う。
「アンディのウッディ」はアンディにとってもウッディにとっても永遠だ。彼らは彼らを一生忘れないし、代わりになるようなものはない。
でも物理的な永遠はない。アンディに愛されたようにボニーに愛されること、また愛することはウッディには出来なかった。
そのとき、ウッディには心を誤魔化して生きることよりも寂しいまま自由になることを選んで欲しいという願いがあの映画を作ったのではないかと私は思ったのだ。
「ボニーは大丈夫だ」
ウッディを許した魔法のことばである。
ボニーにはフォーキーがいて、バズやジェシーやスリンキー達もいる。
だから、誰よりも責任感を持ってボニーのおもちゃでいたウッディは、自分の心の声と、欠落と友情を抱えて、自由に生きる道を歩くといい。
元々アンディの家にいたおもちゃ達がウッディを送り出すシーンは湿っぽくなく、祝福に満ちていた。
バズとウッディ、トイストーリーのいちばんの名コンビの別れでもあった。でも彼らはお互いに永遠だとわかっているのだと感じた。ウッディにアンディがいるように、バズにもウッディがいるし、逆も然りなのだと思えた。
世界の声が聞こえなくなったら、どうするのか。
ウッディは世界の声が聞こえない自分に向き合って、耳を傾け、新たな声を聞いた。
ウッディはこれから世界を見て回るのだろう。
そして生き生きとした顔でたくさんの「ウッディにとってのアンディ」との出会いを待つ仲間達を子供の元に送り出す。
もしかしたらその仕事を続けられなくなる日が来るかもしれない。
ボーやその仲間たちと離れ離れになることもあるかもしれない。
でも何だか思うのだ。
回り回った世界の果てで、またウッディはアンディに巡り会えるんじゃないのかな、と。
原作とか公式との付き合い方の話
こんにちは。(グラ)ンド(肉片)だ。
最近あちらこちらでチラホラと、原作とか公式とかについて悩むオタクを見かけたので、私も自分の思うところを言いたくなってブログを書いた。
結論から先に言うと、もっと気楽にオタクしよ!という話だ。
オタクは恐らくだけど全体的に真面目な人間の集まりだ。だって何かに真摯にならなきゃオタクではない。大凡のオタクが、自分の愛する作品やキャラやその関係性に真剣に向き合って、その結果気が狂ったり体調を崩したりしている生き物だと思う。
だから時に悩む。アニメの描写が気に入らなかったり、公式二次創作が受け入れられなかったり、もっと悲劇だと原作と解釈違いになる。
オタクにとって愛するコンテンツの原作者及び公式は、ときに神様のように絶対的なものに感じられてしまう。ので、それが受け入れられない自分は神に背く異端のように思えてくる。あるいは異端となった他人を罰さなければと思えてしまう人もいるかもしれない。
あくまで、私の気楽に生きるための心構えの話になるが、私は公式にも原作者にも基本的に期待はすれど心のどこかに「でも言うて人間だから何するかわからへんな」という諦めの窪地をつくっている。
もちろん全てに一貫性を持たせることの出来る原作者や制作組織は非常に素晴らしいが、故に得がたいものだ。原作者はいつまでも同じ人間ではないので、いずれは「自分の作った設定や物語を元にした二次創作」を作る1番権威ある人間にならざるを得ない。
そこでもし過去の作品との解釈違いを起こすことがあったとしても、それは二次創作なのでありえないことでは全然ないのである。
制作陣が組織だったり、あるいは公式二次創作が存在している場合はもっとこのパターンが多くなるのは言うまでもないだろう。だから、そこに生じる解釈違いは全然無理に飲み込まなくていいと考えている。
とはいえ、その解釈違いを味わった側は傷つくし、時には作品そのものを嫌いになってしまうこともある。
これも私の心構えの話だが、そういう時は作品と自分との関係をもっと大切にしてみることをおすすめしたい。
再三言うが、「許せないものを飲み込んで作品を愛せ」というつもりは全くない。むしろ逆だ。
自分の好きだった作品と自分の関係を、1対1になって愛してほしいと私は思っている。
作品は、媒体としては1つのものとして存在していても、読む人間が心に取り込むのはそれぞれ違ったものになる。自分が読んだ「作品」は、誰も(作者さえも)介在しない別のものになる。(この「作品」は作品全体という規模に限らない。1章でも1話でも、なんならセリフの1言でもあてはまる)
もちろん、他人の感想を読むことで他人を「作品」と自分の相関図の中に書き加えることは可能だ。でも、やはり「自分の読んだ作品」と自分の関係は「第一」であり、そこから受け取ったものは今後どんな続編や二次創作が来たり、原作者がインタビューで裏話をしたり、あるいは仲間内で自分とは違う解釈が流行しても永遠で、誰にも壊したり汚したり奪ったりすることが出来るものではない。
自分だけの宝物なのだ。
でかい主語を使うが、オタクにとってこの宝物を大切に抱いていることは、原作者を信仰したり界隈の様子を伺ったりすることよりも余程大事なのではないかと私は思う。
その宝物が大事にできそうになくなってしまった時、私は具体的には作品や界隈と距離を置く。誰ともその話をしないし、ワードミュートやブロックを使う。自分の宝物のためにそういった手段に出ることを許してくれる人を信頼できるオタクと呼ぶのではないかと、最近はそんなことを考えている。
同人をやってるオタクは『風が強く吹いている』を読め
こんにちは。グランド肉片だ。
タイトル的に、2,3月の春コミ合わせ原稿など頑張っている人がこの記事を読んでくれているのではないかと思う。
簡潔な題にしたかったので「同人」とのみ書いたが、別に物理的な形になるもので発表していなかったとしても、この記事にたどり着いた全ての、何かしらの創作活動……絵でも、音楽でも、言葉でも……をしている人に問いたい。
突然だが君は、三浦しをん著『風が強く吹いている』を読んだことがあるだろうか?
著者もタイトルも有名だと思うので、すくなくとも名前だけは聞いたことがあるという人が多いのではないかと思う。あと、陸上長距離走……もっと言うと箱根駅伝が題材なのも何となく知っているのではないか。
私も三浦しをん先生の『舟を編む』が好きで、先生が『風が強く吹いている』を書いていることも知っていた。
では何故手に取らずにいたかと言えば、それは長距離走という競技に対する……ウーン……あまり言葉にしたくないのだが、倦厭と言うか……体力作り以外になんのためにやってんのかよく分からないし……高校の時マラソン大会あったけど、マジでキツかったし……駅伝もなんか正月やってるけど、アレ画面が単調……じゃない……?????ランナーのプロフィールのどうでもいい一言コメントが1番面白いかな、みたいな……
率直に言って運動もほとんど苦手だし好きでもないインドア人間なので、魅力を感じる機会が1ミリもなかったのだ。
先日、映画Fate/HFを友人と観に行った際、ぜひ読んで欲しいと貸し出されたのが『風が強く吹いている』の文庫本だった。
オタクとして、また読書家として私は彼女を大変に信頼していたが、一方で何故か毎年箱根駅伝を楽しんでいる彼女が勧めてくる箱根駅伝の小説、というものに一抹の不安があった。
申し訳ない話だが、私は毎年正月に行く親戚の家で垂れ流される駅伝の中継を無感動に眺め、チャンネルを変える機会を伺っているタイプの人間だ。そんな人間が読んで、何も感じられずに友情にヒビが入ったらマジでどうしよう…と受け取りながらそんなことを考えていた。
ボールゲームのような対戦の楽しみとか、運動する人間のフォームの美しさとかは分かるのだが、特にいわゆる個人競技系のスポーツもので描かれがちなイメージのある(がち、はあくまで勝手なイメージだ)、「速さの先に見える世界」みたいな神がかり的なものに大して、私はものすごく冷めている。
自分には一生知りようのない、確かめようのないものだし、作家だって伝聞からの憶測で書いてんだろう、とどうしても思ってしまうのだ。キャラクターたちの感情だけが勝手に昂って、理解の置いてきぼりを食らう居心地の悪さを感じるのだ。
…………スポーツもの作品への悪感情をこれでもかと吐露してしまった。共感してくれる人ははたしてどれくらいいるだろうか。
いてくれたら嬉しいな。
そしてその人にこそ、『風が強く吹いている』をお勧めしたい。
『風が強く吹いている』は、竹青荘という下宿に住む寛政大学の10人の学生が、ほぼ素人ながら箱根駅伝を志し、力を合わせ邁進する物語である。
彼らを率いているのが、4年生の清瀬だ。彼は高校生まで走ることに一途な人生を歩んでいたが、故障によって一度挫折した過去を持つ。
清瀬が主人公の走にこう話すシーンがある。
「長距離選手に対する、一番の褒め言葉がなにかわかるか」
「速い、ですか?」
「いいや。『強い』だよ」
(三浦しをん『風が強く吹いている』(文庫版)p.207より)
ストーリーはこの「強い」という概念を主軸に展開する。
筋をじっくりと解説しても仕方ないので、私なりに得た感想を簡単に述べるが、この「強い」という概念は、私のこれまでのスポーツとスポーツものの作品を通じた体験を大きく塗り替えるものだった。
私たち、同人オタク……もとい何にしろ創作をする人間は、わかりやすく「ひとつの解に留まらない」世界にいる。創作によって生まれるものはあらゆる要素に左右され、それをひとつの尺度にのみ固執して評価することは愚かしいのだと、誰もが知っている。創作では、それが「当たり前」だ。
『風が強く吹いている』を読むと、その「当たり前」のことが「長距離走」というあまりにもごくごくシンプルな世界にも実は当てはまるものなのだと気づかされる。
持久力と速さしか見えていなかった世界に、新しい色が生まれる。
解像度が引き上がる。
それだけの納得と実感を得られる作品だった。箱根駅伝を通して、竹青荘の面々は、各々がそれぞれの方向に「強く」なっていく様子が描かれている。
この作品に対しては多角的に感想があるが、最も私の胸に大きな割合を占めたのは、この「強さ」の概念だ。
ありきたりなおためごかしでなく、地に足の着いた実感を持ち、また多様でありながら一貫性をもって描かれた「強さ」は地球の反対側の民族ほど遠い存在に思えていた「長距離走選手」と私を接続してくれた。
私達はともに孤独で、しかし強い結び付きを持ち、そのための「強さ」を求めていた。
その実感を是非、たくさんの人に味わってもらいたい。
再度になるが、『風が強く吹いている』未読の方には、特に創作に日々悩んだり調子に乗ったり忙しない方には、この作品を読んでいただきたい。
きっと、明日筆を取る力になってくれる作品だと思う。
あと今アニメも放送中なので、そちらの方もよろしくお願いします。(未履修)(ちゃんと見ます)
老李書文のバレンタインがあまりにも素晴らしくてブログを書くオタク
(この記事はFGOバレンタイン老李書文・新宿のアサシンのネタバレが含まれます。また、ブログ文調なので実質の感想までに長い語りがあります。苦手な方は25行ほどスクロールしてください。)
こんにちは。グランド肉片だ。
年始から早1ヵ月、季節はバレンタインである。
昨日から、スマートフォンRPG・Fate/Grand Orderでもバレンタインイベントが開催された。
しかも今回は全お渡しシナリオがフルボイスで聴ける。
超豪華な声優を何人も起用していながら今までシナリオにボイスが着いたことがほとんどなかったFGO民にとっては砂漠のオアシスどころか一晩にして村が海の底に沈んだがごとき巨大供給だ。
さて。
私の今年の一番の目当て(とか言って複数いるが)は1月頭に実装された老李書文だ。
実装当時は、若いころにもましての塩対応おじいちゃんかと思っていたところに(詳しくは書かないが)孫になったとも嫁になったともとれる盛大なデレ台詞を雨の如く浴びせられ、年始早々再起不能になったマスターが後を絶たなかった。
誰もが思っただろう。
「こいつのバレンタインはヤバイ」
2月6日深夜11時、私はその日の昼休みに会社近くの大型電気店で新調したイヤホンを耳に、アプリの受け取り画面を開いた。
未プレイの方に説明すると、このイベントでは手軽に手に入ってランダムに渡すチョコと、ちょっと頑張って手に入れる代わりに意中の人に狙って渡せるチョコの2種類がある。
一刻も早く聞きたかったのでしばらくはちまちまとランダムチョコを使っていたのだが、CV鶴岡聡さんの鯖(5人くらいいる)が全員そろったあたりでしびれを切らし、意中チョコを手に入れるため周回クエストを爆走した。
言い訳になるが、弊社の終業時間がイベント開始時刻より遅いこと、私の使用しているスマートフォンがiPhone5Sという、ローディングにじっくりこだわって時間をかけるビンテージスマホであることから意中チョコを手に入れたのが深夜になってしまったのである。
やっとこさ手に入れた意中チョコが溶けそうなほど熱くなった手で震えながら受け取り画面をタップした。
聞いた。
正確に言うと、奥ゆかしいビンテージスマホが李老師の優しい声に耐えきれず一度アプリを落としてしまったため、途中まで聞いてその後マイルームのマテリアルから聞きなおした。
すごく気持ちがわかる。
オタクの持ち物として意識が高いスマホだった。
前置きが長ったらしくなったが、ここからがシナリオの本感想となる。
言い忘れていたが、私は(老)李書文の夢女であり、また李×新殺のカップリングを愛しているオタクでもある。それらに留意して以下はご覧いただきたい。
まず竹林の背景が出たので、「お、若い方と同じ鍛錬を見守るシーンかな?」と思った。
しかし、それにしてはSEが軽い。そう思ったところに選択肢が来た。
「参りました」「わ、わからない……」
混乱する。鍛錬じゃなかったの!??!何!???!!?!?え!?!?!!?!??!!?
…………
ご、碁デート!?!??!!?!?竹林碁デート!!??!???!??!!
詳しくは神槍李書文の幕間を見てほしいのだが、竹林碁デートは李×新殺の初デートスポットとして私の中で名高いシチュエーションである。
なんというか、李書文にとっては「とりあえず」人を誘ってみたいお気に入りの場所、国分寺や小金井に住む人間にとっての吉祥寺みたいなものなのではないだろうか。
冒頭から致命傷だ。
そうかと思えば、次にはこんな地味な老人にひっついてるなとお小言を言われる。
お前こんな時ばっかり爺ちゃんぶってるんじゃないよ!老いてなお盛んて自分で言ってたくせによ!
チョコレートを渡すと、なるほどこれを渡すために碁に付き合ったのか、と納得される。
そっちのほうが口実と気づいてるのか気づいてねえのかわからない、食えないジジイだ。
チョコレートを渡したのだから、食べるところを目撃することは覚悟していたのだが、食べている声が信じられないほどかわいい。感想もかわいい。子供の頃を思い出すって何。かわいい。実装して。
そしてお返しを考えるとき、選択肢に武器しかない。武のことしか考えてない。
いやそれにしても槍はともかく第一候補が腕を切り落とすってどういうこと?
欲しいっつったらどうするの?くれるの?くれそう……………
奇しくも先日フォロワと話していた隻腕の李書文が頭をよぎった。
腕一本欠けた程度、別に殺しの支障にならないんだよな……怖いわ……
そうした問答もあったのち、老李書文がお返しにくれたのは、魔よけの霊木・桃の枝を彫って作った木剣だ。物理的な殺傷能力はなく、魔物相手のお守りのようなものだという。
龍の細工が施してあり、丁寧なつくりの美しい剣である。獰猛でストイックな武人でありながら家族を大事にしたという彼らしい、優しさのこめられた品だ。好きになってしまう。
バレンタインのお返しに武器を渡してくるサーヴァントは何人かいる。新宿のアサシンもその一人だ。
新宿のアサシンは、いつ座に還るともわからない自分がいなくなったあともマスターが身を守れるようにと、鉄扇を渡してくれる。ちょっと傾いた趣味が彼らしい。
老李書文のお返しを受け取ったときに、自然と彼のことが思い出された。護身武器をくれる新宿のアサシンと、魔除けの武器をくれる老李書文。
思っていることは同じで、でもアプローチが対照的で、可愛いよねこの二人。(ところで李老師は木剣の使いかたは教えてくれないのだろうか)
礼装のフレーバーテキストにはなにやらオカルト色の強いお札を作ることを提案した後、まあそんなものなくても儂(らサーヴァント)が護るけどね!(意訳)と付け加えられている。ちょこちょこ夢指数が高い。
木剣を渡した李書文は、最後に長寿を願ってくれた。
李書文は、サーヴァントとしては珍しく、老齢での現界をしている。
その珍しさは、もちろん老いてなお武を誇った強さに起因しているが、それと同時にそれだけ「長く生きた」ことが珍しいということでもある。
李書文は、「一戦一殺を心掛けている」サーヴァントだし、実際に対戦相手の武術家を勢い余って殺してしまったエピソードも遺っている。
一武術家として生きる中で、多くの殺し合いを経てきた中で、「長く生きる」ということの難しさ、そしてそのなかで得られるものを知る人間だ。
帝都コラボイベントにて、夭逝の剣客である岡田以蔵に「それほどの才、なぜ磨かなかった」と言葉をかけた場面など、印象的だろう。
人を手軽に殺せるほどの強さを持つ一方で、その強さを長く生きる中で培ってきた人だ。
彼にとって長く生きるとは、今の、まだ若い私が思うこと以上に重みのある言葉なのだと思う。
老李書文にとって私は嫁なのか孫なのかとかいろいろ考えていた夢女子私は、ごく普通に一個の人間として健やかに長く生きることを願われてもうめちゃくちゃになってしまった。
なんだっていい。もう私はあなたが好きだし、生きてほしいと願われているなら生きようと思った。掛け値なしに、生きたいと思える理由になった。
好きな人に生きることを願われるのが、これほど強烈な勇気や支えになると初めて知ったし、私もいつか誰かにとってそうありたいとさえ思えるシナリオだった。
以上が、私の老李書文バレンタインシナリオに関する一通りの感想である。まだシナリオを見ていない方は、どうか入手して実際のものを見てほしい。
こんな素敵なシナリオを用意してくださったライターさん、イラストレーターさん、声優の安井邦彦さん、及びすべての運営にかかわるスタッフの方々に感謝している。フルボイスはいい文明だった。
とりあえず、私はこれから100年生きてみるつもりだ。長く生きた果てに、何かをわたしも得られるように。
あと来月までにはスマホも買い替える。