トイストーリー4 世界の声と続く人生

 

こんにちは。グランド肉片だ。

私は今、トイストーリー4を劇場で鑑賞した帰りの電車でこの文章を書いている。

 

突然だが、「やりたいこととやるべきことが一致する時、世界の声が聞こえる」という言葉をご存知だろうか?

『STAR DRIVER 輝きのタクト』というアニメに登場する言葉だそうだ。

なぜ伝聞調なのかと言えば、私はそのアニメを見て知ったのではなく、私の恩師に当たる人物からその言葉を教えられ、後にTwitterでそれがスタドラに出てくる言葉なのだと知ったからである。(その恩師がスタドラを見ていたのかも定かではないが)

 

やりたいこととやるべきことが一致する時、世界の声が聞こえる。

アニメのヒントなしに私なりに解釈したが、なるほど得心の行く言葉だ。

学業が楽しい学生、仕事が楽しい社会人。

やりたいこととやるべきことが一致している彼/彼女は毎日がとても充実しており、また時間の差はあれど優秀な結果を出すイメージも強い。時には、その業界に多大な影響を与える功績すら残すこともある。

まさしくそれは「世界の声が聞こえている」と言えるだろう。

 

そして、トイストーリーの主人公・ウッディにとってそれは「アンディのおもちゃとして生きること」だった。

アンディにとってウッディは最高のおもちゃで、前作3のラストでおもちゃ達をボニーに譲り渡す際も最後まで躊躇していた。

しかし最終的にアンディはウッディを「自分の部屋の置物」ではなく、「ボニーが心から楽しんで遊ぶおもちゃ」にすることを選んだ。

つい先日のロードショーでトイストーリー3を見て、ラストで号泣した。それだけに4が賛否両論を呼んでいるらしく、どうなるかハラハラしながらの鑑賞だった。

 

結論から言えば、ボニーがアンディと交わした「大切にして欲しい」という約束は破られることになる。

しかしそれは仕方の無いことだ。

ボニーはまだ幼いし、アンディのウッディに対する想いは年齢を差し引いても汲み取れるものではない。

ボニーはボニーの心に従っておもちゃを愛し、おもちゃと遊ぶ。

だから、ウッディという「保存状態の素晴らしいプレミアムな」そして「アンディがずっと大切にしてきた」おもちゃを放置し、フォーキーという彼自身ですら自分をゴミとして認識してしまうような「おもちゃ」に夢中になるのだ。

 

ウッディはウッディで、アンディのことをずっと心残りにしたまま、「ボニーのおもちゃ」としての責務をたとえ彼女に相手にされなくてもこなしていく。

アンディの元を去り、ボニーの家で半ば飼い殺しのような生活を送るウッディには「これしかない」のだ。

アンディと別れたウッディにはもう世界の声が聞こえない。それでもウッディにはおもちゃとしての生命が宿っていて、彼がおもちゃとして認識される限り、続いている。その中で彼はどうするのか…… そういったものが問われた映画だったと私は思う。

 

「アンディのウッディ」はアンディにとってもウッディにとっても永遠だ。彼らは彼らを一生忘れないし、代わりになるようなものはない。

でも物理的な永遠はない。アンディに愛されたようにボニーに愛されること、また愛することはウッディには出来なかった。

そのとき、ウッディには心を誤魔化して生きることよりも寂しいまま自由になることを選んで欲しいという願いがあの映画を作ったのではないかと私は思ったのだ。

 

「ボニーは大丈夫だ」

ウッディを許した魔法のことばである。

ボニーにはフォーキーがいて、バズやジェシーやスリンキー達もいる。

だから、誰よりも責任感を持ってボニーのおもちゃでいたウッディは、自分の心の声と、欠落と友情を抱えて、自由に生きる道を歩くといい。

元々アンディの家にいたおもちゃ達がウッディを送り出すシーンは湿っぽくなく、祝福に満ちていた。

バズとウッディ、トイストーリーのいちばんの名コンビの別れでもあった。でも彼らはお互いに永遠だとわかっているのだと感じた。ウッディにアンディがいるように、バズにもウッディがいるし、逆も然りなのだと思えた。

 

世界の声が聞こえなくなったら、どうするのか。

ウッディは世界の声が聞こえない自分に向き合って、耳を傾け、新たな声を聞いた。

ウッディはこれから世界を見て回るのだろう。

そして生き生きとした顔でたくさんの「ウッディにとってのアンディ」との出会いを待つ仲間達を子供の元に送り出す。

もしかしたらその仕事を続けられなくなる日が来るかもしれない。

ボーやその仲間たちと離れ離れになることもあるかもしれない。

でも何だか思うのだ。

回り回った世界の果てで、またウッディはアンディに巡り会えるんじゃないのかな、と。