同人をやってるオタクは『風が強く吹いている』を読め

 

こんにちは。グランド肉片だ。

タイトル的に、2,3月の春コミ合わせ原稿など頑張っている人がこの記事を読んでくれているのではないかと思う。

簡潔な題にしたかったので「同人」とのみ書いたが、別に物理的な形になるもので発表していなかったとしても、この記事にたどり着いた全ての、何かしらの創作活動……絵でも、音楽でも、言葉でも……をしている人に問いたい。

 

突然だが君は、三浦しをん著『風が強く吹いている』を読んだことがあるだろうか?

 

著者もタイトルも有名だと思うので、すくなくとも名前だけは聞いたことがあるという人が多いのではないかと思う。あと、陸上長距離走……もっと言うと箱根駅伝が題材なのも何となく知っているのではないか。

私も三浦しをん先生の『舟を編む』が好きで、先生が『風が強く吹いている』を書いていることも知っていた。

では何故手に取らずにいたかと言えば、それは長距離走という競技に対する……ウーン……あまり言葉にしたくないのだが、倦厭と言うか……体力作り以外になんのためにやってんのかよく分からないし……高校の時マラソン大会あったけど、マジでキツかったし……駅伝もなんか正月やってるけど、アレ画面が単調……じゃない……?????ランナーのプロフィールのどうでもいい一言コメントが1番面白いかな、みたいな……

率直に言って運動もほとんど苦手だし好きでもないインドア人間なので、魅力を感じる機会が1ミリもなかったのだ。

 

先日、映画Fate/HFを友人と観に行った際、ぜひ読んで欲しいと貸し出されたのが『風が強く吹いている』の文庫本だった。

オタクとして、また読書家として私は彼女を大変に信頼していたが、一方で何故か毎年箱根駅伝を楽しんでいる彼女が勧めてくる箱根駅伝の小説、というものに一抹の不安があった。

申し訳ない話だが、私は毎年正月に行く親戚の家で垂れ流される駅伝の中継を無感動に眺め、チャンネルを変える機会を伺っているタイプの人間だ。そんな人間が読んで、何も感じられずに友情にヒビが入ったらマジでどうしよう…と受け取りながらそんなことを考えていた。

 

ボールゲームのような対戦の楽しみとか、運動する人間のフォームの美しさとかは分かるのだが、特にいわゆる個人競技系のスポーツもので描かれがちなイメージのある(がち、はあくまで勝手なイメージだ)、「速さの先に見える世界」みたいな神がかり的なものに大して、私はものすごく冷めている。

自分には一生知りようのない、確かめようのないものだし、作家だって伝聞からの憶測で書いてんだろう、とどうしても思ってしまうのだ。キャラクターたちの感情だけが勝手に昂って、理解の置いてきぼりを食らう居心地の悪さを感じるのだ。

 

…………スポーツもの作品への悪感情をこれでもかと吐露してしまった。共感してくれる人ははたしてどれくらいいるだろうか。

いてくれたら嬉しいな。

そしてその人にこそ、『風が強く吹いている』をお勧めしたい。

 

 

『風が強く吹いている』は、竹青荘という下宿に住む寛政大学の10人の学生が、ほぼ素人ながら箱根駅伝を志し、力を合わせ邁進する物語である。

彼らを率いているのが、4年生の清瀬だ。彼は高校生まで走ることに一途な人生を歩んでいたが、故障によって一度挫折した過去を持つ。

清瀬が主人公の走にこう話すシーンがある。

 

「長距離選手に対する、一番の褒め言葉がなにかわかるか」

「速い、ですか?」

「いいや。『強い』だよ」

(三浦しをん『風が強く吹いている』(文庫版)p.207より)

 

 

ストーリーはこの「強い」という概念を主軸に展開する。

筋をじっくりと解説しても仕方ないので、私なりに得た感想を簡単に述べるが、この「強い」という概念は、私のこれまでのスポーツとスポーツものの作品を通じた体験を大きく塗り替えるものだった。

私たち、同人オタク……もとい何にしろ創作をする人間は、わかりやすく「ひとつの解に留まらない」世界にいる。創作によって生まれるものはあらゆる要素に左右され、それをひとつの尺度にのみ固執して評価することは愚かしいのだと、誰もが知っている。創作では、それが「当たり前」だ。

『風が強く吹いている』を読むと、その「当たり前」のことが「長距離走」というあまりにもごくごくシンプルな世界にも実は当てはまるものなのだと気づかされる。

持久力と速さしか見えていなかった世界に、新しい色が生まれる。

解像度が引き上がる。

それだけの納得と実感を得られる作品だった。箱根駅伝を通して、竹青荘の面々は、各々がそれぞれの方向に「強く」なっていく様子が描かれている。

この作品に対しては多角的に感想があるが、最も私の胸に大きな割合を占めたのは、この「強さ」の概念だ。

ありきたりなおためごかしでなく、地に足の着いた実感を持ち、また多様でありながら一貫性をもって描かれた「強さ」は地球の反対側の民族ほど遠い存在に思えていた「長距離走選手」と私を接続してくれた。

私達はともに孤独で、しかし強い結び付きを持ち、そのための「強さ」を求めていた。

その実感を是非、たくさんの人に味わってもらいたい。

 

 

再度になるが、『風が強く吹いている』未読の方には、特に創作に日々悩んだり調子に乗ったり忙しない方には、この作品を読んでいただきたい。

きっと、明日筆を取る力になってくれる作品だと思う。

あと今アニメも放送中なので、そちらの方もよろしくお願いします。(未履修)(ちゃんと見ます)

老李書文のバレンタインがあまりにも素晴らしくてブログを書くオタク

(この記事はFGOバレンタイン老李書文・新宿のアサシンのネタバレが含まれます。また、ブログ文調なので実質の感想までに長い語りがあります。苦手な方は25行ほどスクロールしてください。)

 

こんにちは。グランド肉片だ。

年始から早1ヵ月、季節はバレンタインである。

昨日から、スマートフォンRPGFate/Grand Orderでもバレンタインイベントが開催された。

しかも今回は全お渡しシナリオがフルボイスで聴ける。

超豪華な声優を何人も起用していながら今までシナリオにボイスが着いたことがほとんどなかったFGO民にとっては砂漠のオアシスどころか一晩にして村が海の底に沈んだがごとき巨大供給だ。

 

さて。

私の今年の一番の目当て(とか言って複数いるが)は1月頭に実装された老李書文だ。

実装当時は、若いころにもましての塩対応おじいちゃんかと思っていたところに(詳しくは書かないが)孫になったとも嫁になったともとれる盛大なデレ台詞を雨の如く浴びせられ、年始早々再起不能になったマスターが後を絶たなかった。

誰もが思っただろう。

「こいつのバレンタインはヤバイ」

 

2月6日深夜11時、私はその日の昼休みに会社近くの大型電気店で新調したイヤホンを耳に、アプリの受け取り画面を開いた。

未プレイの方に説明すると、このイベントでは手軽に手に入ってランダムに渡すチョコと、ちょっと頑張って手に入れる代わりに意中の人に狙って渡せるチョコの2種類がある。

一刻も早く聞きたかったのでしばらくはちまちまとランダムチョコを使っていたのだが、CV鶴岡聡さんの鯖(5人くらいいる)が全員そろったあたりでしびれを切らし、意中チョコを手に入れるため周回クエストを爆走した。

言い訳になるが、弊社の終業時間がイベント開始時刻より遅いこと、私の使用しているスマートフォンiPhone5Sという、ローディングにじっくりこだわって時間をかけるビンテージスマホであることから意中チョコを手に入れたのが深夜になってしまったのである。

やっとこさ手に入れた意中チョコが溶けそうなほど熱くなった手で震えながら受け取り画面をタップした。

 

聞いた。

正確に言うと、奥ゆかしいビンテージスマホが李老師の優しい声に耐えきれず一度アプリを落としてしまったため、途中まで聞いてその後マイルームのマテリアルから聞きなおした。

すごく気持ちがわかる。

オタクの持ち物として意識が高いスマホだった。

 

 

前置きが長ったらしくなったが、ここからがシナリオの本感想となる。

言い忘れていたが、私は(老)李書文の夢女であり、また李×新殺のカップリングを愛しているオタクでもある。それらに留意して以下はご覧いただきたい。

 

まず竹林の背景が出たので、「お、若い方と同じ鍛錬を見守るシーンかな?」と思った。

しかし、それにしてはSEが軽い。そう思ったところに選択肢が来た。

「参りました」「わ、わからない……」

 混乱する。鍛錬じゃなかったの!??!何!???!!?!?え!?!?!!?!??!!?

…………

ご、碁デート!?!??!!?!?竹林碁デート!!??!???!??!!

 

詳しくは神槍李書文の幕間を見てほしいのだが、竹林碁デートは李×新殺の初デートスポットとして私の中で名高いシチュエーションである。

なんというか、李書文にとっては「とりあえず」人を誘ってみたいお気に入りの場所、国分寺や小金井に住む人間にとっての吉祥寺みたいなものなのではないだろうか。

冒頭から致命傷だ。

 

そうかと思えば、次にはこんな地味な老人にひっついてるなとお小言を言われる。

お前こんな時ばっかり爺ちゃんぶってるんじゃないよ!老いてなお盛んて自分で言ってたくせによ!

 チョコレートを渡すと、なるほどこれを渡すために碁に付き合ったのか、と納得される。

そっちのほうが口実と気づいてるのか気づいてねえのかわからない、食えないジジイだ。

 

チョコレートを渡したのだから、食べるところを目撃することは覚悟していたのだが、食べている声が信じられないほどかわいい。感想もかわいい。子供の頃を思い出すって何。かわいい。実装して。

そしてお返しを考えるとき、選択肢に武器しかない。武のことしか考えてない。

いやそれにしても槍はともかく第一候補が腕を切り落とすってどういうこと?

欲しいっつったらどうするの?くれるの?くれそう……………

奇しくも先日フォロワと話していた隻腕の李書文が頭をよぎった。

腕一本欠けた程度、別に殺しの支障にならないんだよな……怖いわ……

 

そうした問答もあったのち、老李書文がお返しにくれたのは、魔よけの霊木・桃の枝を彫って作った木剣だ。物理的な殺傷能力はなく、魔物相手のお守りのようなものだという。

龍の細工が施してあり、丁寧なつくりの美しい剣である。獰猛でストイックな武人でありながら家族を大事にしたという彼らしい、優しさのこめられた品だ。好きになってしまう。

 

バレンタインのお返しに武器を渡してくるサーヴァントは何人かいる。新宿のアサシンもその一人だ。

新宿のアサシンは、いつ座に還るともわからない自分がいなくなったあともマスターが身を守れるようにと、鉄扇を渡してくれる。ちょっと傾いた趣味が彼らしい。

老李書文のお返しを受け取ったときに、自然と彼のことが思い出された。護身武器をくれる新宿のアサシンと、魔除けの武器をくれる老李書文。

思っていることは同じで、でもアプローチが対照的で、可愛いよねこの二人。(ところで李老師は木剣の使いかたは教えてくれないのだろうか)

礼装のフレーバーテキストにはなにやらオカルト色の強いお札を作ることを提案した後、まあそんなものなくても儂(らサーヴァント)が護るけどね!(意訳)と付け加えられている。ちょこちょこ夢指数が高い。

 

木剣を渡した李書文は、最後に長寿を願ってくれた。

李書文は、サーヴァントとしては珍しく、老齢での現界をしている。

その珍しさは、もちろん老いてなお武を誇った強さに起因しているが、それと同時にそれだけ「長く生きた」ことが珍しいということでもある。

李書文は、「一戦一殺を心掛けている」サーヴァントだし、実際に対戦相手の武術家を勢い余って殺してしまったエピソードも遺っている。

一武術家として生きる中で、多くの殺し合いを経てきた中で、「長く生きる」ということの難しさ、そしてそのなかで得られるものを知る人間だ。

帝都コラボイベントにて、夭逝の剣客である岡田以蔵に「それほどの才、なぜ磨かなかった」と言葉をかけた場面など、印象的だろう。

人を手軽に殺せるほどの強さを持つ一方で、その強さを長く生きる中で培ってきた人だ。

彼にとって長く生きるとは、今の、まだ若い私が思うこと以上に重みのある言葉なのだと思う。

 

老李書文にとって私は嫁なのか孫なのかとかいろいろ考えていた夢女子私は、ごく普通に一個の人間として健やかに長く生きることを願われてもうめちゃくちゃになってしまった。

なんだっていい。もう私はあなたが好きだし、生きてほしいと願われているなら生きようと思った。掛け値なしに、生きたいと思える理由になった。

好きな人に生きることを願われるのが、これほど強烈な勇気や支えになると初めて知ったし、私もいつか誰かにとってそうありたいとさえ思えるシナリオだった。

 

以上が、私の老李書文バレンタインシナリオに関する一通りの感想である。まだシナリオを見ていない方は、どうか入手して実際のものを見てほしい。

こんな素敵なシナリオを用意してくださったライターさん、イラストレーターさん、声優の安井邦彦さん、及びすべての運営にかかわるスタッフの方々に感謝している。フルボイスはいい文明だった。

 

とりあえず、私はこれから100年生きてみるつもりだ。長く生きた果てに、何かをわたしも得られるように。

あと来月までにはスマホも買い替える。

「劇場版主人公」という傀儡-劇場版サイコパスSS01感想

こんにちは。グランド肉片です。

この記事は、アニメPSYCHO-PASSシリーズ及び劇場版サイコパスSS01について無遠慮なネタバレが含まれます。

お気をつけください。

 

……自分がまさか、映画の感想お気持ちブログを書くことになるとは、という気分である。

でも、こんなの文章にしなきゃあまりにやってられなかった。

最初に言うと、この記事は全体的に私の新劇場版に対するネガティブな気持ちによって書かれているので、そういったものに触れたくない方にはブラウザバックを推奨する。

それでも読むつもりで来た方には、今しばらくお付き合いいただきたい。

 

PSYCHO-PASSシリーズ未履修の方に説明すると、PSYCHO-PASSシリーズは、近未来日本で「シビュラシステム」により人間が機械的に判断され、管理されるようになった社会を描くSFである。

人間の悪性(犯罪係数)までもがシステムに管理された世界で、公安局に所属するキャラクター達が目指すべき未来を模索し、奮闘する非常に見応えのある作品だ。

 

PSYCHO-PASSは2期3クール分のTVアニメと、旧劇場版、そして今回新作となる新劇場版(3部作)で構成されており、

今回の映画「SS01 罪と罰(以下「罪と罰」)」はその第1弾だった。

今回の新劇場版は、TVシリーズの主人公・常守朱に代わり、その脇を飾っていたキャラクターにスポットを当てた作品になっている。

 

罪と罰」の主人公の1人は、TVシリーズ2期からレギュラー入りした霜月美佳である。

彼女は、端的に言って生意気な新人である。

霜月はエリートで、弱冠18歳にして公安局刑事課1係に配属された。

ズケズケとものを言い、遠慮がなく、先輩の常守朱にすぐつっかかる。悪態もつく。

さらには、終盤では取り返しのつかない悪事に手を貸してしまい、視聴者の間でもかなり不況を買っていた。ように思う。

 

しかし、彼女はあの世界のいわば「普通の人」だったのだ。

人並みに正義感があり、直感力があり、しかし常守朱ほど強くなれない。

精神に、シビュラシステムへの畏怖と依存が染み付いている。

シビュラシステムとあくまで対峙する姿勢を崩さない常守朱に対し、霜月美佳は2期ラストで、シビュラシステムの巨大さに屈し、奴隷となることを誓ってしまう。

 

私は、そんな霜月美佳が大好きだった。

エリートとして信頼されながらも、脆さを内包した彼女がとても愛おしく、キャラクターとして刺さったのだった。

 

 

だから、そんな彼女が新劇場版罪と罰の主役を張ると聞いて驚き、またとても嬉しかった。

旧劇場版にも霜月は登場したが、メインが常守朱狡噛慎也だったので、深く描かれることは無かったのだ。

ようやく、私は彼女の物語を見ることが出来る。

その期待で、胸がいっぱいだった。

 

 

 

……映画が終わって、しばらく、ショックを受け止めきれなかった。

罪と罰は2期から3年後の時間軸で、登場人物は皆、著しく成長していた。

 

特に霜月美佳だ。

罪と罰の霜月美佳には、2期ラストで見せた、シビュラシステムへの恐れや、服従の精神が全くなかった。

シビュラシステムの構成員に平手打ちまでしてた。

吹っ切れていた。

(追記)……

シビュラシステムの完璧さを信奉する描写は確かにあったが、それは恐れではなく、管理者としての自負のようなものに変わっていたと感じる。

そして、その自負の強さを獲得する物語は、描かれていない。

……

 

3年とは、人間が変わるにはもちろん充分な時間だ。

それはわかる。

でも物語のキャラクターである以上、その変化は描写されなければ、見せてもらわなければ伝わらないし、無いのと同じなのだ。

 

私は、常守朱のようにシビュラシステムに真っ向から対峙出来ない霜月美佳が、

それでも「ただシビュラシステムに呑み込まれるだけ」という状況を良しとしない闘志を手に入れる物語だと思っていた。

いや、確実に空白の3年間にそれはあったのだと思う。

でなきゃ、あの罪と罰の霜月美佳にはならない。

 

なのに、その過程はすっ飛ばされて、ただ結果だけがそこにあった。

彼女はかっこつけて、でも曇りのない瞳で「正義の味方」を名乗る。

完全に置いていかれた。

Twitterでも言ったが、Fate/stay nightで例えるなら、物語中盤でいきなり間桐慎二が改心し、桜を攻撃した相手に向かって「僕の妹に手を出すな!」なんて言い出したような。

そんな気分だった。

 

あの霜月美佳は、2期の悪評を塗り替えるだろう。

爽やかなパワーに溢れた、ちょっと生意気だけど熱血で可愛い女だった。

でも私には、あの霜月美佳が、「劇場版の主人公」というポジションのための傀儡にしか思えない。

かっこいい活躍をさせるために、抱えたネガティブな部分を取り外し、みんなに好かれるように、かっこよく都合よくカスタマイズされた人形だ。

いつまでも彼女に弱くあって欲しかったわけじゃない。

でも、過程をすっ飛ばした強さを見せつけられては、私の好きだった彼女はもうどこにもいないのではないかと思わずには居られないのだ。

 

 

もしかしたらこの後3期の発表があって、そこで霜月美佳の「成長」は描かれるのかもしれない。

でも、その「成長」を知らずに、手放しで楽しむことは私には出来なかった。

願わくば、「3期」を見た後に、もう一度この劇場版を見直して、「成長したね、霜月」なんて微笑むことが出来たらいい。

心の底から、そう願っている。

 

ゼロの執行人と正義とか星とかロマン

こんにちは。グランド肉片です。

君はもう『劇場版名探偵コナン ゼロの執行人』を観たか。

見てないなら今すぐ映画館に走って、それからこのブログに戻ってきてほしい。

私もさっき見てきた。

そしてその感情の任せるまま今から感想を書こうと思う。

 

 

いくぜ

 

 

 

いやえっっっっっっっっぐいことするな!?!?!?!?!?!

見終わって最初の感想がそれだった。

もう赤井と安室の女たちの間では100万回言われていることだと思うから、今更こんな外野が言及することもないと思うけど、今回の劇場版の日下部さんと羽場さんと公安の立ち位置で、バーボンとスコッチとライを連想するなという方が無理だろう。

降谷にバーボンを断罪させているようなものじゃないか…うわえっぐ…

でも、その構造を踏まえるとこれは降谷、そして安室にとってのゼロ=初心にかえる物語だったのかな、とも思いました。事件を受けて、降谷は別に何かを反省するとか、改めるということをするわけじゃなくて、自分たちの正義が背負う重みを(皮肉な形でありながら)再認識する物語というか…うまく言えないけれど、そんな見方もあるんじゃないかな、と思います。

 

正義に力を与えるものはロマンだ、というメッセージが暗くなりやすいテーマにある種のさわやかさというか、前向きさを与えているのがとてもいいな、と思いました。阿笠博士が冒頭で、事件解決の鍵となるドローンを「男のロマン」と語り、少年探偵団は宇宙へのロマンを胸に平気で大事をやってのけ、降谷にコ蘭に向かって愛だねえなんて言わせちゃって、最後は「僕の恋人はこの国だ」だもんな…映画を見てから主題歌を聞くと、情熱的なトランペットとギターとカスタネットの旋律にも納得がいきます。正統ハードボイルドな感じ。めちゃくちゃ応援歌ですね…

すごく余談なんですけど、フォロワが「日本の土着文化(例えば子守歌とか)を知らない安室」とかいう萌え爆をかましていたことを思い出しまして、コナン君の正体を知った安室さん(まだ知らないよね?)にコナン君が「安室さんて意外と日本のこと知らないよね」って指摘したら「君みたいな幼馴染とラブラブな少年にはわからないかもしれないけど、恋人の知らない面を少しずつ知っていくのもいいものなんですよ」って返してほしいなって思ったりしました。

 

あと、映画の画面を見て思ったんですけど、降谷零めちゃくちゃお星さまじゃないですか?電話ボックスから風見さんに連絡しているとき、暗闇の中で電話ボックスがぽつんと光っていて、朝が来た瞬間に降谷が安室になるのどどどどどエモでびっくりした……正しさは光だけど、すべてを完璧に照らせるわけではなく、正義は暗闇の中で孤独に光る星のようなものなのかなという気分になります。最大(物理)の敵が流れ星のようなものだったので、星同士の対決というか……白鳥のカプセルと対峙する降谷零ホントよかったな………

今回は降谷零(とコナン君)の物語だったので彼がわかりやすく一等に光ってましたけど、主題歌は「正義はそう/涙の数だけ…」と歌ってくれていて、例えば風見さんも涙を流したことが何度もあるんだろうな、と見ていて思いました。降谷さんが理解できないところ、たくさんあるよね…割と人外だもんね……(人外判定ガバオタク発言)。

降谷零もコナンくんも風見さんたちもそれぞれが星であり、空を見あげれば見える無限の星がエンディングで流れたのすごく良かったです。それと降谷零がコナンくんのことを引力のある星として信頼してて、それを恐ろしい相手と表現するのもとても好きです。

コナン君に盗聴器を仕掛けられたのに気づかなかった風見さんにわざわざ技をキメて(高度なジョーク)盗聴器剝がして潰すの、めちゃくちゃプライドエベレストゴリラムーヴでよかったですね。余談ですけど梓さんに「いいお嫁さんになりますね」とかいう「ソレ今の時代場合によってはセクハラ認定されてもおかしくないねんで?」って感じのセリフを平然と吐くところもエモみがあって好きです。

 

いろんな正義の涙を押しつぶしたところに降谷零の正義はあって、それは時としてそのために犠牲者を生む。しかし例えば、公安を撥ね付けた橘さんのように、彼の正義でなくては守る対象にならないものもある、というのが実に素敵ですね。正義の多様性につける落としどころとして、いいシーンだったなと思いました。

 

橘さんめっちゃいいキャラでしたね。公安にぶつけられるクソデカ感情のなかでも一等かっこいい。公安は国を守るので人に目がいかない、というのはわかりやすい弱点だけど、そこに最終的に「過ちであっても私が判断した私の判断を私の判断として尊重しろ丸め込むな」という棘を向けるキャラクターがぶっささるのめっちゃよい……強い……降谷零にはどうか知らないですけど、風見さんの傷には彼女の存在がずっとぶっ刺さってるだろうなと思うと大変いいなと思います。

 

最後に性癖の話をして終わるんですけど、今回の映画でも降谷さんのバーサク顔が見れてめちゃくちゃ満足です。パワーゴリラが過ぎませんか?FGOやったら絶対バスタークリティカルブレイブチェインを主軸に戦略を練るタイプだと思います。あの顔を見るとやっぱり人外だなって思って興奮しますね。彼と同じ種族ってコナン世界にいるのかよくわからないけど…

 

結論としてゼロの執行人めちゃくちゃ面白かったです。

製作スタッフの方と勧めてくれたフォロワたちに感謝します。

 

李新殺ははちゃめちゃに良い

こんにちは。グランド肉片だ。

唐突だがFate/GrandOrderにおける李書文×新宿のアサシン(以下新シン)のカップリングがはちゃめちゃにいいことを語らせてほしい。

すごくいい。


ここは公式での細かい絡みを考察したり、生前の歴史とかそういうものと参照することはあまりしない。すまない。ただ個人の妄想と解釈をつらつら書くだけだ。


でもはちゃめちゃに良いから読んでほしい。お願いします。私の推しカプだから最高だってば


李書文も新宿のアサシンのことも知っている体で話させてほしい。顔と名前の一致しない方は、TypeMoonWikiなどを参照するとおおよそのキャラクターを掴んでもらえると思う。

あと、少し真名に関わる話はしてしまう。苦手でない方だけ読んでほしい。



私の李新殺妄想は、新シンが李書文に殺されたいと思っているという妄想に端を発している。

話が少し飛ぶが、李書文の最終再臨絵を見たことがあるだろうか?無ければたぶん普通のイラストでも大丈夫だ。目に宿る圧倒的な、こう触れるものならなんでも殺せるオーラっていうかあ~この人殺人拳使えるんだ~的なアレを感じてくれたと思う。人を殺す獣の視線だ。

感じた体で話を進める。


李書文の幕間では新シンと李書文が互いに憧れを抱くライバルであり、カルデアの手合わせ仲間であるということが発覚したが(マジで発狂した)、私は新シンが手合わせ中にあの瞳に射抜かれたらいいなとそう思うのである。

否が応でも死を予感する視線。ああこの人に殺されてしまう、というときめきに似た絶望。絶望に似たときめき。

これだ。ここを掘り下げる。



このときめきと絶望は、新シンのキャラクター性にちゃんと根があると腐女子は妄想する。

彼は認めた主人に献身的な男だ。

しかも生前(?)の経験から、危険を冒す主に諫言することに彼の忠義のウェイトが置かれている。

たまの未成年飲酒くらいしたって別にいいけど、火に自ら飛び込むような真似は絶対にさせない男だ。ハロイベの新シン超かっこよかったよね。

これは、限定的に変形した管理欲求(義務感)と言っても差し支えないだろう。ここで腐女子は思う。


裏返しで被管理願望があってもいいんじゃないか?

つまりSGってやつだよ

(強気な文調で書いたが、違うかもしれない。ちょっと怖い)


主を管理しなくては、目の届く安心の範囲に居させなくては。その感情の裏側に自分も誰かに属したい、支配されたい、という欲求がある。この妄想が一つの主軸だ。


そしてもうひとつの軸は、生前(?)彼が父替わりの男盧俊義にずっと仕えていた、というポイントにある。ざっくり言うと、自分の父親くらいの年齢の男、父親っぽいポジションの男に弱くねぇかな~?!という(私の)願望だ。

FGOに実装されている李書文は若い姿だが、精神的にも比較的老成しているし(おちゃめな時もあるけど)(かわいいね)、新シンと並べればそれなりの歳の差を感じるだろう。

もし新シンが武芸を李書文に褒められようものなら、父に褒められた息子のような嬉し恥ずかしさを感じること請け合いだ。


さて、二つの軸を重ね、ここに李書文の人を殺す視線が加わるとどうなるか。

自分の父(=自分を生み育てる者)のごとき男に殺されるという究極の管理を味わうことになる。

この人が俺を殺してくれる。

絶望。裏返しに滲み出るときめき。

身動きの取れない感情につらぬかれる。


それを味わいたくて殺し合いに溺れたら、それはもはやセックスではないだろうか?

あわよくば、さらに臨死体験ならぬ臨殺され体験を求めて実際にセックスに至ると考えるのは無茶だろうか?

決して無茶ではない。

決して無茶ではないはずだ。



新シン側の掘り下げばかりしてしまったが、李書文は李書文で新シンに魅力を感じる理由がやまほどある。


そもそも新シンは同郷(ワールドワイド表現)の伝説の武芸人だ。平たく言えば憧れのスタァである。李書文幕間からもこの様子は容易に読み取れる。


そんな憧れのスタァが、自分をライバルと認め、軽口を叩き、しかも歌やら踊りやら、パリピめいた趣味に誘ってくる。

尊敬していた人物が案外気さくだった、を飛び越えて、若いなぁって思うレベルだろう。

しかも私の妄想の中では、李書文が新シン武芸の腕を褒めると、そうだろう!とドヤ顔しつつ、父に褒められた息子のような照れ顔が隠しきれていない。かわいい。

李書文が生前身内に優しいおじいちゃんだったという記述をWikipediaで読んだ気がするので図々しく設定を借りるが、つまるところ李書文も新シンをかわいいって思えばよくないか?実際可愛いから本当に問題ないと思う。かわいいな?

私はどちらかと言うと

李書文→←←←新殺

くらいの関係が好きなので、李書文に抱かれたいと思って誘いをかけるも李書文が全く勘づいてくれずセックスに漕ぎ着けず、それを酔った席で赤裸々に愚痴って荊軻に爆笑されるみたいな妄想が好きである。


「あの先生にそこまで性欲を期待するのは難しいんじゃないか?」

「そんなことねぇよぉ~多分いやうん

みたいな会話をしてほしい。


煮詰まった新シンがどうにかこうにか李書文とセックスに漕ぎ着けたら、あんな飄々とした風貌から想像出来ないほど獣じみて激しかったら最高じゃないか。

背が低くてがっしりした筋肉でえげつない腹筋の李書文、しっかり筋肉はあるがなだらかに美しく身についている新シン、絵面もめちゃくちゃいい。

個人的には刺青の龍の喉笛とかに噛み付いて欲しいんだんで終わったあと律儀に手当をしてほしい。

サーヴァントだからこんなの意味無いのに、と思いながら新シンは手当されるがままで、貼られた絆創膏を隠すためにクイックパーカーとか着ればいいんじゃないか? 

髪も解いて過ごすといいと思う。

そんなところだ。


李新殺についてはほぼスケベなことしか考えていない。申し訳ない。

今後も何かあったらまた記事を書くと思う。

李新殺はいいぞ。みんな描いてくれ。私も描く。


グランド肉片


ユーリ!!! on ICEはBLか?

先日、勇利とヴィクトルのキスについてつらつら語ったら思いがけずたくさんの方から反応をいただいてしどろもどろしました。 私はあくまで1人気アニメで男性同士のキスシーンが描かれた、というガワの話をしていたのですが、何故かユーリ!!! on ICEそのものに対する深い考察だと言ってくださる方もいて、マジかよ…行間を読む力高過ぎるだろう…と恐れおののき、ハーブティーを淹れ、布団で安眠するなどしていました。 閲覧大変ありがとうございました。 

 
さて、引用RTなどのコメントでちらほら目に入ったのが
「あの2人はBLじゃないんだよ、愛があるんだ」 
という言葉である。そこで 「ユーリ!!! on ICEはBLなのか?」 という疑問が生まれてきた。 いや、多分ここまで読むと、ほぼ確実にブログでちょっと騒がれた人があからさまな炎上狙いでまた売名しようとしてるとか思われそうだし、きっとTwitterアンケートを取ったとしても「BLではない」派閥がきっと大差をつけて勝つだろう。でも、前回のブログも含めて少し、私の話を聞いてほしい。 
 
前回のブログ後半部で、私は 「あるオリジナルな関係性が『恋愛』という言葉でパッケージされ、ありきたりな関係として扱われる」 ということについて話した。 恐らく、少なくない数のユーリ!!!ファンは、同じように彼らの関係に「BL」という言葉でパッケージすることで、ありきたりな、あるいは既存の関係として扱われるのは嫌なのだろうと思う。 何しろ、ユーリ!!! on ICEのねらいの一つに「愛を定形から抜け出させる」ことがある じゃあそれで、BLという言葉を使わないことでいいじゃん、という話になりそうだが、そこを待ってほしいのだ。
 
言葉を忌避することが、定形からの完全な脱出になるのだろうか? 言い換えれば、「BLではなく愛だ」と言うことで彼らの関係性のオリジナリティ、あるがままの姿は保証されるのだろうか? 
 
答えは半分YESなのだが、しかし、ユーリ!!! on ICEの文脈を汲み取って、NOと言わせてほしい。 
ユーリ!!! on ICEの文脈についてまず、以下の記事を参照してほしい。
 
『ユーリ!!! on ICE』と「愛の再定義」 - 倉庫街
 
 ここで長谷川さよりさんは、「ユーリ!!! on ICEは『愛の再定義』をテーマにしている」と語っている。言い換えれば、「愛」という言葉に対して私たちが与えてきた、固まった意味を今一度崩してみよう、というわけだ。 そして私は同じアプローチをそのまま、BLという言葉にしてみることを提案したいのである。オラついた言い方をすると、
「『BL』が『陳腐な』『ありきたりな』男同士の『恋愛』を指すと誰が決めた?ァァン?」 
というわけである。 
 
BLとはボーイズのラブ、つまり男同士の愛である。そしてその多くは恋愛である。これは認める。しかし、そもそも恋愛なんてその他の愛とはグラデーションの地続きで、範囲はひどく曖昧なものだ。BLは今思われている以上にもっと多様な関係性を含むことができるジャンル用語だと思うし、BLの目指すべき多様性とは、その中にファンタジーとか学園モノとかがあることよりは、より多くの関係性を獲得することなのではないかとも思っている。 実際、商業BLに描かれている関係性はちゃんとよく見ればひとつひとつにちゃんとしたオリジナリティがあるし、近年は特にその多様さを求める傾向が強いように思われる。 
 
 
 だから私は声を大にして言いたい
 
 「ユーリ!!! on ICEはBLだ!」 
 
そして、「BL」という言葉に、それだけの深遠な関係性をも含みうる意味を認めてほしい、と思っている。 勇利が愛という言葉に、はっきりとパッケージされていない、微妙な気持ちを含んだように、BLという言葉にも、こういったはっきりとパッケージできない関係性を含んでほしいのだ。高尚な愛、俗なBLという対比なんて存在しない。どちらも曖昧で広く、大きな海のようなものだと思ってほしい。囲って遠ざけるのではなく、広くあることを認めてほしいのだ。 (ただ、誤解が怖いのでさらに注釈すると、ユーリ!!! on ICEはBLだが、BL作品としてのみあるというつもりは無い。それはそれで的外れな考えであると思う。)
 
 
 ユーリ!!! on ICEは本当に革新的なアニメだ。名目はフィギュアスケートという競技を軸にしたスポーツアニメだが、その中に愛についての様々な試みが含まれている。 私は先程、ユーリ!!! on ICEはBLだと述べたが、だからといってユーリ!!! on ICEは腐女子だけが楽しめるものではない。作品の中にはBLが入っているが、腐女子でなくたって、勇利とヴィクトルの関係性には感動し、愛について考えるだろう。きっともうすぐ、BLが腐女子によって意味的にも作品的にも囲いこまれ、隔離された世界で生きる時代は終わるのだ。ロボットオタクでなくてもパシフィックリムの映像に感動するように、腐女子でない人々もBLをBLとして楽しむ日が来る。 ユーリ!!! on ICEめっちゃ尊い…クソ尊いな…と思いながらここで筆を置きたいと思う。
 
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今期大人気アニメ ユーリ!!! on ICE で ヴィクトルと勇利がキスをしたことの意義 - inato備忘録

今期大人気アニメ ユーリ!!! on ICE で ヴィクトルと勇利がキスをしたことの意義

ご存知大人気アニメ、ユーリ!!! on ICE。私も毎週楽しく見ている。
言うまでもないことかもしれないが、スケートという珍しい題材や美しい映像表現に加え、腐女子をニヤッとさせる(どころでは済まないが)BLチックな表現がこのアニメの特色として挙げられる。
 
特に作中にまんべんなく含まれる、主人公の勝生勇利とコーチのヴィクトル・ニキフォロフのスキンシップは毎週多くの視聴者を墓地送りにしてきた。そして最新第7話ではさらに決定的な表現を盛り込んできたのである。
 
キスした。
 
え?!マ?!?!
 
やりよったな!!!!
 
(本当はギリキリハグですと言い訳の出来るカットであるが、演出自体は古式ゆかしくキスシーンに幾度も使用されてきた表現であり、制作側がキスをしていると想像させたいのは自明だと思っているのでここではキスをしたという体で話を進めさせてほしい。)
 
視聴者なら誰もが知っている通りこのアニメのテーマには全般的な「愛」があり、だから実のところ物語としては(恋愛の気持ちが含まれなくても)キスくらいしたっていいのになぁとは思っていた。しかし日本はまだまだ男同士の恋愛というものを特異に扱う国なので、日本のアニメでギャグ要素や何かしらの戦略などを含まずに、純粋な歓喜や愛の表出として男同士のキスシーンを描くのは難しいところがある。その風潮を大胆にも踏み越えたのである。スタッフの勇気に感銘を受けた。なのでこのたびはこのキスシーンが、ユーリ!!! on ICEという作品内ではなく、作品の外に放つであろう影響について話をしたい。あくまでも個人的な見解とご理解の上、読んでいただければ幸いである。
 
 
このキスシーンが指し示す可能性に、私はとても希望を抱いている。それは
 
「BLの脱BL作品(占有)化」
 
である。
本屋で商業BLの棚の前に立ったことはあるだろうか? 一つ一つ手に取ってみると、それらの作品の幅がいかに広いかを知ることができる。ファンタジー、学園モノ、裏社会モノ…これらはすべて「BL」という1点に拠って分類され、その棚に並んでいる。
日本という社会が男同士の恋愛を特異なものとして扱う傾向があるため、BLはどんなに作品の幅があってもBLとして纏められ、ゆえにジャンル内での作品内容幅の広さを誇っていた。
逆に、BLジャンル以外でしっかりとしたBL表現が描かれているような日本の作品というのは珍しい。大抵がギャグだったり、あるいは現実のゲイをなぞったリアリティのあるキャラクターである。
(リアリティのあるゲイキャラクターを批判したいわけではない。そもそもリアリティのあるゲイキャラクターとBLのキャラクターはグラデーションで地続きだし、それはそれで良いものだと思っているが、ここでは多少のファンタジー/フィクション性を含むという意味でのBLについて話しているので、範疇外とさせてほしい)
BLを好む腐女子ですら、BL作品ではないジャンルではっきりとしたBLが出てくるのを「そこは私たちが妄想するからほっといてほしい」としばしば拒否する傾向がある。
 
要約すると、BLは「BL作品」及び腐女子の占有物なのである。言及するまでもないかもしれないが、これに対し男女の恋愛は、物語作中にいくらはっきり含まれてもそれがメインでなければ物語のジャンルを「恋愛モノ」にするわけではない(インディがいくらマリオンとキスしたって、インディ・ジョーンズは冒険物語として扱われる)し、逆に言えばいわゆる恋愛モノ以外であってもいくらでも描かれている。
 
しかし、今回のユーリ!!! on ICEでは決定的愛情表現の代名詞、キスが描かれた。ハグくらいならまだしも、日本人からするとキスはなんというか、うまい言い方が見つからないがアウトラインみたいなものだろう。BL「的」表現をふんだんに盛り込んだアニメではあるが、ジャンルとしてはスポーツものですよ、と銘打ってあるユーリ!!! on ICEにおいて、男同士のキス表現が描かれた。
これはBLがBL作品と腐女子の妄想の占有下から脱する一つの兆しではないだろうか。男女恋愛と同じくらいのハードルの低さでBLがBLをメインとしないような作品に登場する日もそう遠くないのではないかという希望が(こんな大仰な狙いは制作側からはなかったにしても)今回のユーリ!!! on ICEからもたらされたように思う。
 
 
もう一つ、これはユーリ!!! on ICEという作品として、上手いなと思ったことがある。それは
 
「キスという愛情表現の記号の脱(典型)恋愛占有化」
 
である。「BL表現がBL作品の占有物でなくなる」と今さっき言っておいてなんだこいつはと思った人がいると思うがとりあえず話を聞いてくれ。
 
視聴者の多くは勇利とヴィクトルのキスシーンにもちろん「オッオオオワァアァ」となり、ひっくり返り、マ?こマ?と録画を見返して自分が見たものが幻覚ではないと悟って仰ぐ人は天を仰いだだろう。きっと今頃墓屋と葬儀屋は大繁盛である。
しかし、ある部分逆に冷静になった人「も」いるんじゃないだろうか。「ヴィクトルは(従来キスが記号として表してきたような)単なる恋愛の気持ちでキスしたんじゃなくて、(あえて月並みな表現をすれば)師弟愛とか歓喜の極まりとか勇利への感謝や賞賛の気持ちなどの諸々が彼にキスをさせたんだ」、と。
 
(ここで二つ留意してほしいことがある。
①(あえて月並みな表現をすれば)~以下は、とりあえず恋愛一色と断定しないということに重きをおいているため、その内容自体はこの文脈では全く重要ではないし、出来ればここで共感するのはやめてほしい。
②恋愛一色と即時に断定することを否定しただけであって、全く恋愛の気持ちがない!と、断ずる気持ちも権限もない、解釈に制限を加えるつもりもないから銃を降ろしてほしい)
 
もちろんこの考察は、今まで描かれてきた勇利とヴィクトルの関係性を思えばこそ導き出されるものである。しかしそれに加え、(日本のマンガアニメ作品では特異な)男同士のキスシーンであったことも、この冷静な考察を助ける一因になったのではないだろうか。
 
さっき言及したとおり、日本のマンガアニメ作品においては男女恋愛のハードルはめちゃくちゃ低い。例えばある作品で男同士が手を繋いだら、腐女子は「付き合ってる!!」と歓喜こそすれ、公式的な文脈では二人の間に恋愛感情はないと考えるだろう。しかし男女なら、あたかもそこに公式的な文脈があるかのようにとられることはしばしばである。簡単に言えば男女はイチャつけばそれが即「恋愛」とパッケージされてありきたりな関係として片付けられがちなのである。
 
今回のキスシーンも、勇利かヴィクトルのどちらかがもし女性だったならば、解釈は恋愛の方面が多分に勝って受け取られ、その他もろもろの部分は見えにくくなったのではないか、と考えている(とはいえ1話からずっとどちらかが女のユーリ!!! on ICEを考えられるわけでもないので、実際のところどうなっていたかはわからないが)。
少なくとも、2人が男同士ということが、言い換えればBLがBL作品の外に顔を出すこと敷居の高さが、(視聴者が)2人の関係性を典型的な枠(そもそもそんなものは言葉の上にしか存在しないのだが)の中に片付けてしまうのではなく、一度そこにあるがままに見つめようとすることに一役買っているのは確実だろう。それと同時に、もともと多様な意味を含むコミュニケーションであったにも関わらず物語において「(典型的な)恋愛の記号」として拘束されがちな「キス」を解放し、再び多様な意味を獲得させる効果すら認められるとも言える。
 
 
じゃあ結局、最初と二つ目の話を総合するとオメーは何が言いてぇんだよ!ということになる。矛盾しているように感じる人もいるかもしれない。
ユーリ!!! on ICEは「愛」を定形から逸脱させたい部分があるのだろうな、というのが、1話から最新第7話までを辿っての所感であるが、この狙いを大胆に凝縮したのが今回のキスシーンだ。
男同士という「特異な」シチュエーションでなされることで、「いわゆる『典型的』な『恋愛』の代名詞的記号」であったマウストゥマウスのキスはその意味の独占の中から脱出し、もっと多様な意味を取り戻すことになる。と同時に、BLではなくスポーツものと銘打たれた大人気アニメで、男同士のキスシーンというものが描かれたのは、意図的ではないにせよ、BL作品以外でのBL表現へのハードル下げになるのではないか。ということがこの話のまとめである。
 
めちゃくちゃキャッチーで効果的とはいえ本当によくこんな大胆な選択ができたもんだな…アニメスタッフすげえ…すげえよ…愛しがいがあるにも程がある……来週も楽しみだな!
 
11.18追記
 
「ユーリ!!! on ICEはBLか?」-inato備忘録
この話に寄せられたコメントを元に新しく記事を書きました。こちらもできればご参照ください。